Research and Education Center for Japanese Law 日本法教育研究センター

「カンボジア人学生からの手紙」

2012年秋の紫綬褒章を受章された池田真朗先生(慶應義塾大学法学部・同大学院法務研究科教授)が書かれたエッセイの中に、カンボジアセンターのことが触れられています。
池田先生の許可のもと、以下に掲載させて頂きます。ホームページ掲載に当たり、講談社『本』2013年1月号に掲載された原文を打ち直しました。打ち間違えのないよう、細心の注意を払いましたが、万が一原文と違う箇所がございましたら、それはセンターの責任です。予め深くお詫び申し上げます。


「カンボジア人学生からの手紙」
池田真朗先生
慶應義塾大学法学部・同大学院法務研究科教授
 
11月も終わろうとする寒い日に、まだ会ったことのない二人のカンボジア人学生からの手紙が、人を介して送られてきた。私の2012年秋の紫綬褒章受章を祝ってくれる手紙だった。二通とも、誠実さが伝わる筆跡で、きちんとした敬語も使った日本語で書かれている。
それは、私にとって、何よりもうれしいプレゼントだった。二人は、現在は日本に留学してきているが、数年前にプノンペンの王立法経大学で、クメール語に翻訳された私の民法の入門教科書を学び、かつ私が寄贈したその原書(『民法への招待』税務経理協会)で日本語を学んだ人たちだったのである。
話は1998年の10月にさかのぼる。私は、研究室に来訪されたお二人の弁護士(木村晋介氏と桜木和代氏)から、私の民法教科書について、クメール語への翻訳の許諾を求められた。
聞けばお二人は、弁護士さんたちのボランティア団体「日本・カンボジア法律家の会」の共同代表で、多くの命が失われた不幸な内戦の後、法律を教える教員もその教科書も満足にない状態になったカンボジアの法学教育支援のために、日本の法律教科書をクメール語に訳し、その訳本をカンボジアの大学や裁判官養成所などに寄贈する計画を立てたのだという。かつてカンボジアではフランス法が行われていたので、(周知のようにベトナム、ラオスとともに仏領インドシナであった時代がある)、フランスとドイツの影響を受けて作られている日本民法は、かなりの程度に親和性があるとのことだった。私が喜んで承諾したのは言うまでもない。幸い、出版社も無償で認めてくれた。
そして二年近く経って忘れたころになって、またお二人がやってこられた。今度は、『民法への招待』が三分の一ほど訳せたので、第一分冊の贈呈式をすることになった、ついては、そこで記念講演をしてくれないか、というのである。こうして、私の最初のカンボジア行きは2000年の暮れに実現した。
プノンペン王立法経大学の講堂で初めての翻訳書贈呈式と記念講演をした当日は、カンボジアの司法大臣、教育大臣、在カンボジア日本大使の列席があって、国を挙げての復興のために私たちの活動を歓迎してくれていることを実感した。講堂いっぱいの学生諸君も、本当に情報に飢えているという感じで、目を輝かせて聴講してくれた。
これが、その後2002年、04年、08年と続く、私のカンボジアでの講演と民法講義の始まりだった。第二分冊、前半合本、最終完全翻訳本と、翻訳が進むつどイベントがくりかえされたのである。
ちなみに、第一回の講演から通訳をしてくれたカンボジア人コン・テイリー君は、その後同書の続きの部分の翻訳者となり、さらに日本に留学して、現在は名古屋大学の准教授になっている。
2000年当時、首都プノンペン市内にはまだ道路に信号がなく、郊外の小学校を訪問した際には、鉛筆や消しゴムを持ってきてあげればよかったと悔やむような状態だったのだが、数年おきに訪問するごとに復興は急速に進み、鉛筆と消しゴムなどと考えたのがすぐに恥ずかしくなるような状況になった。
そしてすでに2002年の二度目の講演では、一年少し前に何もわからずに講演を聞いていた学生さんが、民法の解釈に関する立派なレベルの質問をしてくれたのである。
これらの体験は、私に強い印象と、貴重な示唆を与えてくれた。つまり、国際的な支援は、上からの目線で「してやる」ものと考えていたら非常に不遜かつ不適切である、ということである。
そして、2008年に完全翻訳版を贈呈するために訪問したときには、カンボジアでは日本の支援による民法典ができあがったところであった。できあがった、といっても、政府側の制度対応や市民間の取引慣行の整備などからして、民法が実際に施行されて順調に機能するようになるにはまだ数年はかかるのではないかという感じはしたものの、私は講演で民法典の制定を祝い、「これからは皆さんは我々と民法研究の友人になる」という言葉で結んだ。実際、その施行に関する法律の整備などに手間取ったこともあって、カンボジア民法典の運用開始は2011年の暮れまで延びたが、今後のすみやかな浸透が期待されるところである。
そこで話は冒頭に戻る。カンボジア人学生の二通の手紙は、四年前にプノンペン王立法経大学の中に設置された名古屋大学日本法教育研究センターで教えておられた宮島良子先生から、前掲の桜木先生に託され、私の手元に届いた。
二通のうち一通には、「以前にもお手紙を差し上げたことがあるのですが覚えていらっしゃるでしょうか」とあった。じつは彼らは、右の日本法教育研究センターの一期生で、今年七月の卒業後日本に留学し、名古屋大学大学院の院生や研究生になったところだったのである。
当時すでに翻訳書のほうは広くプノンペンで法学教材として利用されていたのだが(ちなみに現在ではこの翻訳書は、前掲の「日本・カンボジア法律家の会」の尽力でmasaoikeda.comというドメインに公開され、自由に閲覧できるようになっている)、私は原書『民法への招待』の第三版補訂が出た機会に、これをプノンペン大学やカンボジアのJICA事務所、大使館等に寄贈した。そのうちの大学に送った一冊が、日本法教育研究センターで活用され、二通の手紙を書いてくれたリム・リーホン君、ジア・シュウマイさんに学んでもらえたのである。なかでもリム君は、当時同センター一期生代表として、まだたどたどしかった日本語で、懸命に礼状を書いてくれたその人だった。
現在我が国では民法(債権関係)の大幅な見直しの作業がはじまっている。アジアをリードする民法典を作る、という意見もあるところだが、私は、このようなカンボジアでの経験から、「それぞれの国にそれぞれの民法、それぞれの国民にそれぞれの民法」という考え方が重要であると思うに至っている。そしてこのたび、そういうことまで書き込んだ、一般市民向けの民法入門書である『民法はおもしろい』(講談社現代新書)を上梓することになった。
私に与えられた紫綬褒章は、四十年近くに及ぶ、債権譲渡を中心とした民法学研究を評価していただけたもののようであるが、もとよりこれまでの業績が、そして受章後初の著作として発表する本書の内容が、その栄誉にふさわしいものかどうか自信はない。けれども私は、本書のはしがきに、「市民の幸福や安心・安全な生活の実現のために民法を究め、その成果を市民に還元して、一人ひとりの幸福をより大きなものとし、安心・安全な生活をより長く送っていただく。それが、民法学者の使命ではないかと私は思っている」と書いた。本書が、ささやかながらその使命の実現を少しでも担えるものになれば、著者としてこれに勝る喜びはないし、リム君たちへのお礼のメッセージとするにも、本書が一番よかったと思っている。
        ・・・講談社『本』2013年1月号より

 
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